欲をなくしても(禁欲)をしても悟りを開くことは出来ない理由


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悟りを開くために禁欲が大切。

禁欲しなければ悟りを開くことは出来ない。

そんな教えが広まっていますがそれには語弊があります。

悟りを開くために禁欲をしても悟りを開くことは出来ません。

悟りを開いたのなら欲はなくなっていくでしょう。

しかしだからと言って、禁欲したからさ取れると思うのは間違いです。

目次

どうして禁欲をしても悟りを開くことはが出来ないのか

いくら禁欲をしたところで悟りを開くことは出来ません。

もちろん悟りを開いた人は禁欲をしなくても禁欲しているのと同じ状態でしょう。

だからと言って、悟りを開いていない人が禁欲をしたところで悟りに到達することは出来ません。

例えば、野球のイチローのようにヒットを連発したいと思って、イチローと同じフォームにすればヒットを打てるようになるのかというとそんなことはありません。

真似をすることは大切ですが、真似をしたからといって同じになるかというとそれは別の話なのです。

悟りも同じように、いくら悟った人と同じことをしたとしてもその結果悟りを開けるかというと別の話なのです。

ですからいくら禁欲をしたところで悟りに到達することは出来ないのです。

悟りは禁欲しているのではなくそもそも欲が生まれていない

悟りを開いている人は、常に禁欲をしているわけではありません。

そもそも欲が生まれてきていないのです。

自分が手に入れているものを欲しいとは思いません。

例えば、彼女が欲しいと思っている人にそんな欲は消し去ってしまえ。

それは煩悩だ。

まだまだ修行が足りない。

なんて言ったところでその欲が消えることはありません。

人は欲を我慢したとしても完全に消えることはないのです。

しかし、自分がすでに彼女がいるのだとしたらどうでしょうか。

彼女がいるのに彼女が欲しいとは思わないはずです。

悟りとはそういうものです。

満腹の状態の時にご飯を食べたいという欲は生まれてきませんし、

たっぷり寝た後は睡眠欲も湧いてきません。

そのように悟りとは、すでに満たされているから欲が湧いてこないのです。

ですから常に禁欲しているわけではないのです。

欲しいと思っていないから欲がないのです。

我慢しているということはまだ悟っていないということ

悟りとはすでに欲が満たされているか、欲しいと思っていないから禁欲する必要がないのです。

我慢をしている時点でまだ悟っているとは言えません。

我慢しているということは欲がまだ湧いてくるという状態なのです。

欲しいと思っているのです。

欲しいと思っていると、それを手に入れるまでは苦痛を感じてしまいます。

そしてそのものを欲しいという欲を抑えることにも苦痛を感じます。

ですから欲がある時点でまだ悟りを開いているとは言えないのです。

悟りは、苦痛がなく心が平穏な状態であることが悟りです。

欲があるということはそれだけ心の平穏がなく悟りを開いている状態ではないのです。

どうすれば欲が湧いてこなくなるのか

悟りを開くためには、

欲が湧いてこない状態を作る必要があるのです。

かと言ってその欲を我慢したところでいつまでも欲が消えることがなく悟りを開くことは出来ません。

ではどうすれば欲が湧いてこなくなるのかというと、人は深く知り納得することでその欲がなくなるのです。

例えば、彼女が欲しいと思うのはいま自分がさみしかったり性欲があるからであったり、結婚したいからという理由かもしれません。

どの理由であれ彼女が欲しいという欲が生まれていることは事実です。

いま自分が寂しいのはなぜ寂しいのか。

どうして寂しいから彼女が欲しいのか。

ということについて知る必要があるのです。

別に寂しいだけなら彼女でなくても友達でも良いはずです。

しかし彼女が欲しいと思うのはいつでも会える人が欲しいのか、それとも本当は寂しいのではなく人肌寂しいのか、性欲を満たしたいのかという理由に変わってきます。

本当は寂しいのではなくただ性欲を満たしたいだけかもしれません。

では性欲を満たすために彼女を作るということがどんなことなのかを深く知っていたらどうでしょうか。

性欲を満たすだけなら誰でも良いという行動の結果は虚しい気持ちになることがあるでしょう。

そのことを深く知っているのなら性欲を満たすだけの彼女を作ろうという欲は生まれてこないでしょう。

それなら愛する人と共に過ごし、

その結果そのような行為をするということになるでしょう。

自分の心の本質、

自分の本心を知ることで欲というのは自然と消えていくのです。

欲があることの苦しみを深く知っていれば、欲があることよりもないことの方が良いと深く理解していれば自然と欲はなくなっていきます。

そのように自分の心を深く知ることで欲がなくなっていくのです。

どうして自分の欲が生まれるのかを考えて気付くことが大切になってきます。

欲があることは悪なのか

悟りの世界では、欲があることは悪だとされています。

どうして欲があることは悪なのかというと、

欲があることによって問題が増えたり自分の心に負けていることになるからです。

欲に負けているということは、

自分勝手な行動をしてしまう可能性があり悟りとは程遠いような生活になってしまうのです。

自分自身も制御出来ない人が悟りを開くことは出来ないと考えられているからです。

しかし、実際には欲があることは全く悪ではありません。

欲なんていうものはあって当然です。

お腹が空けばご飯を食べたいと思うのが普通です。

疲れたら休みたいというのも欲です。

欲がなければ人は壊れてしまいます。

欲はあって良いのです。

ではどうして欲は悪なのかと言うと、それだけ苦痛が生まれてしまうからです。

欲は苦痛の原因です。

欲と辛いことはセットなのです。

自分を良く見せたい(見栄)があれば、バカにされた時にイライラしてしまう(見下された)

もっと自由な時間が欲しいと思えば、自由な時間がないと辛いと感じる。

全て欲があるから苦痛を伴うのです。

よく見せたいと思う気持ちがなければ、失敗したりバカにされてもイライラしたり苦痛を感じることはありません。

人間なのだから失敗して当然と思えばなんとも思わないのです。

自由が欲しいという気持ちがなければ、人間なのだから全てが思い通りにならなくて当然ですし、自由にならなくて当たり前。

という気持ちを持っていれば苦痛を感じることはないのです。

苦痛がある生活は辛いものになります。

辛い生活を送ることは悟りとは程遠い生活になってしまいます。

ですから、悟りの世界では欲があることは悪だとされているのです。

欲がなくなるとどうして良いのか

欲がなくなるとどうして良いのというと、

欲がなければ苦痛が生まれないからです。

苦痛がなければ満足しているということなので今の自分を受け入れられて心の平穏が訪れます。

心が平穏な状態になれば、

何も悩みも苦痛もなく自然と生きていくことが出来ます。

苦痛がないというのは、

全てが叶っているのと同じなのです。

大金持ちにならなくても満ち足りているし、

自由がなくても満足している。

恋人がいなくても満足ですし、

何もなくても全てを手に入れているのと同じなのです。

全てを手に入れたとしても苦痛は伴います。

もっと欲しいものがあるのではないか。

まだ全ては手に入れていない。

もっと地位や名誉が欲しい。

という風にいくら全てを手に入れたとしても満ち足りることはないのです。

欲は欲を呼び、ますます欲が増えていくのです。

それだけ人間というのは傲慢な生き物なのです。

しかし欲がなくなり悟りを開けば、

そんな欲の渦から脱出することが出来て満足した日々を送ることが出来るのです。

全てを手に入れるよりも満たされることが出来るのです。

欲をなくすことは本当の幸せを手に入れることが出来るのです。

ですから欲をなくすことは良いことだと言えるのです。

あとがき

悟りを開くために禁欲をすることは確かに完全に間違いではありません。

禁欲をしないで欲に任せた生活をしていては余計に欲に飲まれてしまいます。

しかしだからと言って、

いくら本気で禁欲したところで悟りを開くことは出来ないのです。

禁欲をしても、禁欲をしなくても悟りを開くことは出来ません。

そこが悟りの難しいところです。

悟りとは、自分の心の声を聞き、自分を深く知ることで悟りを開くことが出来ます。

禁欲や瞑想、苦行のような方法論ばかりを試しても悟りには辿り着けないのです。

悟りは本質に気付き、理解して納得することが大切なのです。

悟りは求めれば求めるほど遠ざかっていくものです。

いくら禁欲をしても悟りには到達できません。

禁欲にとらわれることなく、

自分の心に気付くことから悟りは始まるのです。

答えは常に心の中にあるのです。

悟りについてのもっと詳しく知りたい方はこちら

 

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